mit

哲学院生の自主学習

ショーペンハウアー①【哲学者】

 

孟二加です。哲学院生です。

 

今回は自身の専門である、

アルトゥール・ショーペンハウアー

(1788.2.22〜1860.9.21)

について、ネチネチと語って行こうかと思います。

f:id:tfsoo:20210818165053p:image

(出典:いらすとや)

 

この面白い頭のおっちゃんがけっこう好きなもので、

こんなに長々書くことは、おそらく今後ないと思います…

しかし専門的な内容は最小限に留めて、楽しいところだけ書いていこうと思います。

(ですから専門家の先生怒らないで)

 

普通は概要とか、彼の生涯から行くんでしょうけど、

興味ない人にとっては退屈なだけですからそれは後に回しましょう。

今回は筆者の考えるショーペンハウアー哲学の魅力から、惜しみなくお伝えしたいと思います。

 

〈魅力〉

①文章が平易で明瞭

そりゃあ、内容は一筋縄では行きませんが。

原文も正確な文法で書かれているようです。

(ドイツ語初学者の私が読めるくらいには)

 

②皮肉や悪口が小気味良い

彼は真剣に哲学してる中に急に毒吐いたりするんです。

けっこう本気っぽいところが面白い。

それがスコーーーンと気持ちよく決まるもんで、私なんかは本読みながら吹き出すこともあります。

これはもちろん笑いの好みに左右されると思いますし、ショーペンハウアーのここを嫌う人もいますが、私は好きなところです。

極端に言うとなんJ見てるみたい。

全然わからんけどたぶん紙の上でだけ饒舌なタイプ。

ツイッターやったらショーペンハウアーはツイ廃になると思います。

 

③色彩豊かな感じがする

「世界は私の表象である」

主著の第一文なんですけど、この一言からしてなんていうか、鮮やかですよね。

(まぁ主著を読み進めて行くと、この一言は全然正確じゃないことがわかるんですが…)

 

我々の見てる世界って全然無機質じゃないのに、論理で語った途端、なんか無機質になるじゃないですか。

それって言い表せてないなって。

かといって文学だと本当か嘘かわかんないとこあるし。(フィクションが人気だし。)

ショーペンハウアーなら良いとこ取りです。

(私としては)

 

また、ゲーテに言われて色彩論書いたり、主著で美学書いたりもしてます。

その敏感さも持っているということ。

 

あとこれは本当に根拠とかなくて"なんとなく"ですし、偏見ですが、

ショーペンハウアーショパンっぽい。

カントはバッハっぽい。

 

四者共好きなんですけどね。

 

④哲学が意外と優しい

これは、「嘘だろ」と思われがちなところかもしれません。

でも私は優しさがある哲学だと思いますし、これが私の考えるショーペンハウアー哲学の一番の魅力です。

(哲学の奴隷としては優しさと魅力の定義をするべきなんでしょうが、当然省略)

 

「世界感は暗いし、禁欲的だし、どこが?」

ってこんなイメージだと思うんですけどね。

「世界観は暗いし」

→これはなんというか、彼にとっては見たままを語っただけなので、

むしろ世界や人間の暗くて残酷な側面をきちんと受け止めた点で、すっごい優しいと思うんですよ。

「禁欲的だし」

→これは単に誤解だと考えます。

彼は確かに意志の否定を説きますが、

「禁じる」というほど強い執念で以って欲を制限しては、結局それは意志が強いんですよね。

彼は、「緩やかな餓死」とやらを意志の否定の最高だと言います。

欲望が自然と消えて、植物が枯れるように死んでいく様です。

そんなことあり得るんかと突っ込みたくなりますが、

禁欲と同一視はできないことがここからわかります。

 

要は、めっちゃ暴力的にまとめると、

「必要以上に頑張らなくて良いよ」感が、そこはかとなくある。

(専門家に怒られそう)

 

例えば私は、にわかなりにカントやニーチェも好きなんですけど、

彼らは比較的「厳しいな」と思うんです。

カントは、人間の前提をけっこう良いものだと捉えていると思います。

でもそれって、良くないときは人間じゃないみたいな厳しさに転じやすい。

それで言うと、ニーチェは正反対。

どんなに醜くても汚くても自分と人生から目を背けてはいけない感じ。

だって永劫回帰ですからね…逃げ癖のある私としては究極に厳しい…

 

まとめると、

まっすぐな悪口と切れ味の良い皮肉

結局優しい

うーん。

有吉さんや東野さん(東野幸治)好きな人にならわかってもらえそう。

(ちなみに大好き)

 

とりあえず以上。

次回は思想の特徴や概要等。

 

また。

 

 

哲学史やってく3-古代1

 

孟二加です。哲学院生です。

 

哲学史やってく」では、その名の通り哲学史の自主学習をやっていきます。

 

今回は古代、教科書で言うと一番最初のところを取り上げて、

自主学習したものをまとめていきたいと思います。

 

<哲学以前>


世界の全体を哲学的に問うという態度は

 ヘシオドス(前700年頃)

で既にあった。

著作は『神統記』。

ホメロスとの差異として、

神話の表象を通した理性的洞察の試みの萌芽が見られる。

 

<哲学的思惟の目覚め>


先行文明と接点を持っていた小アジア西海岸のイオニア地方、商業都市ミレトスで

 イオニア学派ミレトス学派

が起こる。

彼らは神話の克服を目指した。

現象を「神々の気まぐれ」とせず、普遍的な原理で説明しようとした。

自らの研究を自然への問いと自覚していた。

倫理や社会は考察の対象ではなかったため、自然哲学と呼ばれる。

しばしばヨーロッパ科学の始祖として考えられるが、

注意すべきは彼らが手法に実験を用いなかったことである。

これは近代的な意味での科学と意味が異なる。

 

イオニア学派の創設者と考えられている

 タレス(前624年頃〜前546年頃)

は、七賢人にも数えられる。

日食を予告し、ピラミッドの測量を行ったことから、

バビロニア天文学とエジプトの幾何学に通じていたことがわかる。

これらをギリシアの科学に導入し、

科学を実用的技術から純粋科学(理論科学?)へと高めた。

万物の原理を「」であると言ったことでよく知られているが、

これの意義は


「彼が初めて自然全体の多様性の中に統一性を求め、かくして存在するものの全体を主題化し、それを一つの原理から把握しようとしたというところ(リーゼンフーバーp22)」


にあるのだ。

 

始源(アルケーを初めて唱えた

 アナクシマンドロス(前610年頃〜前545年頃)

は、アルケーを「無限定(アペイロン)」だとした。

火、土、水、風は対立しあうものであるから、

タレスの言う水が一つですべての原理であることはあり得ない

と考えたからである。

「無限定」は、すべての生成の消滅に対して先立っている。

ゆえにそれ自体として時間の制約も受けず、不滅で神的なものである。

また、彼は天動説の源流とされる。

シンプリキオスという人物によって哲学著作を記した最初の人物としても伝えられている。

 

ここまで。

 

[参考・引用]

ミネルヴァ書房『よくわかる哲学・思想』

納富信留/檜垣立哉/柏端達也

平凡社ライブラリー『西洋古代・中世哲学史

クラウス・リーゼンフーバー

 

最近の研究では、観測可能宇宙が無限に広がり続けているらしいですね。

それを受けたらアナクシマンドロスの天動説は一周回って真実に近い気がしてきます。

 

正直言ってしまうと全然興味なかったんですけどね、

めっちゃ面白い。

 

ソクラテス以前の哲学者たちは逸話集みたいなものにまとめられているので、

そういう書籍を手に入れたら再度追記していこうと思います。

 

次回はこの続きか、哲学史を離れて別のことしようと思います。

意外とこの作業大変で…

投稿ペース落ちるかもしれませんが、よろしくお願いします。

 

また。

 

哲学史やってく2-ざっくり西洋哲学史

孟二加です。哲学院生です。

 

哲学史やってく」では、その名の通り哲学史の自主学習をやっていきます。

 

今回は、超ダイジェストな西洋哲学史の後半です。

早速行きましょう。

 

〈近代〉1500年頃〜1900年頃

この頃には既にヨーロッパ各地で哲学が行われています。

中世よりずっと短い400年間ですが、哲学者ラッシュです。

 

ルターの宗教改革と自然科学の発展を皮切りに人々の宗教観が大きく変わったことと思われ、

哲学の問題意識も、ここから実に多様になっていきます。

(もちろん、ユダヤ教キリスト教イスラム教的な世界観は現代に至るまで通底していますが。)

 

1600年頃、「我思う、故に我あり」で有名なフランスの哲学者デカルト

"近代哲学の父"と呼ばれるので、彼を転換点と考えていいのではないでしょうか。

『エチカ』で知られるスピノザ、国家の起源を考えたホッブズ、ロックなどなど、省略しがたい人物が多数。

 

ライプニッツが「モナド」を唱え、「大陸合理論」を代表する。

ヒュームを始めとして「イギリス経験論」が登場。

産業革命が起こり、

かの有名なカントが現れ、

以降彼をきっかけに現代哲学への移行期まで哲学者ラッシュが加速します。

しかもこの加速、現代まで続きます。

啓蒙思想」と「ドイツ観念論」が哲学の本流になっていきます。

 

 

ドイツ観念論三銃士、フィヒテシェリングヘーゲルは外せない。

功利主義」のベンサムも。

筆者の専門であるショーペンハウアーは厭世主義で有名です。

実存主義」の先駆け、キルケゴール

 

(以降、世界大戦前後は割と同時多発的で、ごちゃっとしていて、筆者自身整理しきれてないですが…というか実際のところその哲学者や思想が流行った時期って特定しにくいのですが、主に人物の生年に沿って書いていきます。不自然な点があったら遠慮なくご指摘ください。)

マルクスの『資本論』が出版され、社会主義が台頭。

 

ニーチェの有名な言葉、「神は死んだ」。

ここに至るまで通底してきた神が一旦死んだことで、哲学は変革を迎えます。彼も転換点ですね。

 

次。

 

〈現代〉1900年頃〜今

もはや中心地は世界中ですね。

どんどん行きます。

フロイトによって心理学が分岐。

フッサールによって現象学という一ジャンルが確立。

日本では西田幾多郎が日本独自の哲学として評価され、弟子の田邉元がそれを批評しました。

「京都学派」と呼ばれます。

アメリカで「プラグマティズム」が出現し、より実践的な哲学に関心が集まります。

 

以降の哲学者は世界大戦の影響をもろに受けています。

 

存在と時間』のハイデガーは、20世紀を代表する哲学者です。大問題である「存在」を丁寧に問い直し、日本人にも受けました。

彼も主要な転換点です。

ユダヤ人の女性哲学者アレント第二次世界大戦を受けてアメリカに亡命。「悪と凡人」の概念で有名です。

"哲学を終わらせた男"ウィトゲンシュタインは、終わらせたはずなのに「言語哲学」の先駆けとなります。

「論理学」や「現象学」まで及ぶ功績を残しました。

 

日本では『いきの構造』の九鬼周造

筆者の専門である文人哲学者の和辻哲郎は、一般に『古寺巡礼』や『風土』で知られています。

ハイデガーに影響を受け、彼を批判しています。

『人生論ノート』の三木清終戦を知らずにこの世を去りました。

サルトルによって以降の哲学の問題意識は「実存主義」に集まります。

 

以降、哲学の関心はいかに生きるかという具体的な問題をとらえるようになり、専門性を高めました。

より医療現場に密着した「生命倫理」、

環境破壊を危惧する「未来倫理」、

科学と共に歩む「科学哲学」、

教えるとは何かを問う「教育哲学」、

哲学とは何かを考える「メタ哲学」等々。

 

ここまで。

 

[参考](前回と同様)

ミネルヴァ書房『よくわかる哲学・思想』納富信留/檜垣立哉/柏端達也

 

(・ちょっとウィキペディア

(・筆者の朧気な記憶)

 

 

いやー、疲れました。

(実は内容は前回と続けて書いていて、投稿を分けただけなので)

終盤なんてごちゃごちゃで。

目も当てられないくらい省略したので、それは後々、細かくやっていくことにしましょう。

 

哲学者たちはもちろん人間ですから、当時や前後の世界情勢、哲学史の素養があるかないかでは理解度が変わってきます。

(それもあって哲学研究者は大体誰か一人“伴侶”となる哲学者を見つけて、その人についてのプロフェッショナルになるんですね。)

 

超ダイジェストですが振り返ってみて、筆者自身も非常に勉強になりました。

 

次回このシリーズでは、より詳細な内容に入っていく予定です。申し訳ないですが、好きなところから書かせて頂こうと思います。

 

また。

 

 

 

 

哲学史やってく1-ざっくり西洋哲学史

 

孟二加です。哲学院生です。

 

哲学史やってく」では、その名の通り哲学史の自主学習をやっていきます。

 

初回。さて、ちゃんと続くのか…

まずは西洋哲学史の大まかな流れを振り返ってみようと思います。

文字列と時系列は対応させて、

でも時代背景、人物、問題意識などが分離しないよう注意して書いていきます。

 

西洋哲学史の流れは一般的に

古代、中世、近代、現代

の4つに区分されますから、それに沿って行きましょう。

超ダイジェストにも関わらず、2回に分けます…

今回は古代と中世です。

 

〈古代〉紀元前600年頃〜0年頃

主な舞台は古代ギリシア

哲学の始まりはタレスだと言われています。

人々の問題意識は主に、空や大地といった「自然」に向いていました。

都市国家(ポリス)にソフィストが現れ、

ソクラテスが知識人たちを論破しすぎて処刑されます。

弟子のプラトンが哲学の著作を残すようになり、体系的な学問の発端が見えてきます。

さらにその弟子のアリストテレスは自然科学の基礎と論理学を作った人でもあります。

この後「ストア派」「エピクロス派」が台頭。

その後ローマを中心として「新プラトン主義」が流行ります。

 

次。

 

〈中世〉0年頃〜1500年頃

主な舞台はローマ帝国を中心としたキリスト教圏です。

哲学史において中世はダントツ長いです。

にも関わらず、日本では馴染みが薄い。

初学者向けの文献も少ない。教科書に出てくる哲学者もたった3、4人程度。

(なので特にちゃんと勉強したい)

というのも、この時代の問題意識の中心はキリスト教における「神」だからでしょう。

 

古代から中世へは、新プラトン主義の流れを組んだアウグスティヌスによって転換点を迎えます。

自身の罪の告白を通じて真理を追求した彼ですが、時間論におけるキーパーソンでもあります。

彼以降、「教父哲学」が主軸となって現代の大学の源流ができます。

約1000年後、アンセルムスとアベラールが語られたり省かれたり。

このあたりで「スコラ哲学」が流行。ペストも流行します。

神学大全』で知られるトマス・アクィナス。彼は特にアリストテレスに影響を受け、文章は非常に明瞭で特徴的な論理の元書かれました。

時系列的には、この後ルネサンスに突入します。

 

次。

 

 

[参考]

ミネルヴァ書房『よくわかる哲学・思想』納富信留/檜垣立哉/柏端達也

 

(・ちょっとウィキペディア

(・筆者の朧気な記憶)

 

また。

 

「哲学は役に立たない」?

 

孟二加です。哲学院生です。

 

「哲学は役に立たない」

 

と、大学院まで来て現在進行系で学んでいる私でさえも考えることがあります。

いつもグルグル考えてるのを、初学者や一般層向けに、一人論争してみました。

 

〈役に立たない〉

だって、哲学はひたすらに需要がなくて、「財」と「サービス」を産むことがまあ難しい。

 

※「財」とは、お店に陳列されている商品のことです。形や量があるもののことです。

「サービス」は、美容室やマッサージ、旅行なんかが該当します。

 

要は、交換しにくいんですよね。

交換しにくさで言ったら他にも色々あるでしょうが、特に交換しにくい。

 

本として出版されても、小説と違って読者を楽しませるためには書かれていません。哲学の本なんか読むより小説やアニメを見たほうがずっと楽しいですしね。そして何より本として出版するまでのハードルが高い。

相談や対話としてサービス化できても、一度にさばける人数は当然一人ですから、非常にコスパが悪い。

教授職について大学で教えるとか、オンラインサロンを開いて信者を集めるとか、それにしたって中身に需要がなくちゃ成立しませんから、これも価値交換に至るまでが遠い。

 

つまり需要がないんです。

哲学が与えてくれる"何か"に、人々が価値を感じない。

これに尽きます。とにかく儲からない。食えない。

 

〈反論〉

けど、ここまでの意見て前提からして「役に立つ=経済効率」なんですよね。

一般的な、家庭的な経済感覚で言ったら利益が出なきゃ破綻するので、「役に立つ」=利益がプラスになるという感覚になる。

 

その前提を受け入れれば、確かに哲学は役に立たない。全然使えない。

経済効率もクソもないからです。

 

しかし哲学は経済効率に応えるためにはできていません。

役に立つ/立たないの2択じゃないんです。

 

どちらかといえば、「0をプラスにする」んじゃなくて、「マイナスを0にする」。

哲学はあくまでも、マイナスを0にすることしかしないしできないんだと思います。

 

(というか、哲学者はおそらく基本がマイナスですね。悲観的な立場と言ったら語弊がありますが、人間や社会システムを不具合だらけだと見做しているようなところがあるかと思われます。)

 

また、そもそも人間て経済効率で動いてないんですよね。

考えてみたら当たり前ですが、悩んだり怒ったり楽しんだり愛したり、って経済的でも合理的でもない。

「宇宙の外には何があるんだろう」とか

「死ぬとどうなるんだろう」とか

「動物と人間て何が違うんだろう」とか

「愛するって何だろう」とか

まぁ色々。子供の頃みーーーーーんな考えたでしょう。

大人の皆さんだって、嫌でも考えてしまって眠れなくなって、なんJとか見たり書いたりするわけじゃないですか。で、「いいから寝ろ」ってコメントが飛んでくる。

 

寝たほうがいいことは分かりきっているのに、モヤモヤするから考える。

経済効率もクソもないですよねー、でも考えちゃう。気になって仕方ない時がある。

そういう「気になって仕方ない」のをなんとかしようとしてきたのが、哲学の営みだと私は思ってます。

「気になって仕方なくて」どうしても一世代や一時代じゃ済まなかったから、学問として体系化されてきたんじゃないですかね。

 

〈総括〉

ほとんどすべての学問は哲学から生まれたか、哲学に流れ込みます。(私は高校までの学問と哲学しか知らないんですが、たぶん。)

 

今のところ「哲学って自然科学の残りカス」みたいなひどい言われようなんですが、それでも残ってる。

他の学問は「進む」。

哲学は「立ち戻る」。

他の学問は「細分化」したり「作り込」んだりするけど、哲学は「まとめる」。「可視化する」。

他の学問とは質を異にしている側面があるからなくならない。

 

少ない需要だけど、熱狂的な信者がいるから消えない。

結局、役に立たなそうだけど残ってるのは、単純にめっちゃ面白いからなんですよねきっと。

 

でも一つ注意しなければ。

 

哲学は面白いだけじゃないからです。

「気になって仕方ない」

この先に見つけるものは決して明るいものや美しいものや心地いいものだけではないからです。

むしろ更に難解な問題になって複雑すぎて投げ出したくなったり、

あまりに汚くて醜くて救いがなくて目を背けたくなることがざらにあります。

 

「役に立たない」と言われるのには、そういう理由もあるんじゃないでしょうか。

 

 

熱くなってしまいましたが、こんなとこでやめときます。

 

また。

 

 

哲学科って何するの?②ー大学で哲学を学ぶ意義

 

孟二加です。哲学院生です。

 

前回の続きで、今回は主に大学で哲学を学ぶ意義の部分を書いていきます。

 

【4年間学んだ先輩として率直な感想】

楽しかった。面白かった。本当に。

だって湧いてきた疑問を先生にぶつけても誤魔化されない。むしろ評価される。

いたじゃないですか。「なんで3.14なんですか」って聞いても全然教えてくれない算数の先生とか、「赤ちゃんはどこから来たの?」って聞いても「コウノトリがね」って言う親とか。(例えばですが)

同級生たちも、「考えたことなかった!」とか言いながら一緒に考えてくれる。

反対に、自分が考えたことなかった面白いことを教えてくれる。

 

一方めちゃくちゃしんどかった。

単純に重いテーマの時。「なぜ死んではいけないのか」「死とは何か」「悪とは何か」、生命倫理の「安楽死尊厳死」「中絶の是非」等々。

あと一番は、(後述しますが)自分という人間がいかに汚いか、いかに愚かか、根っこの部分でどういう人間なのか、あるいは人間じゃないのか、直視しなくちゃいけないところ。

 

【思うところ】

ぶっちゃけ哲学科に入ってくる学生の多くは、大卒を取り来ただけで学科はどこでも良かったり、滑り止めで受けていて他学科に落ちた人だったり、「なんとなく」だったりです。

初めから「哲学が好きで最近〇〇先生の本を読みました!」みたいな人は稀有です。むしろそういう人ほど勉強していく中で哲学に失望したり、途中で燃え尽きてしまったりします。

それくらい掴みどころがない学問です。

だからこそ誰にでも開かれているというか。まったく前知識なくても入ってこれます。

敷居は高いようで低いです。

哲学に対して暗いイメージ持ってる方って一定層いると思いますが、私は別として、私の周囲の人たちはどちらかと言うとあっけらかんとしてます。

 

なんでか。おそらくですが、

哲学の方法が、«自分が腹のうちで考えていることと徹底的に向き合うこと»だからだと思います。

これが先述した、哲学の一番しんどいところです。

自分の汚さとか、そういうのを直視したくない人は後々しんどくなります。

(直視しきったらあっけらかんとなるんでしょうか?)

 

例えば、「自分の利益のために嘘をついていいか?」って聞かれたら大体の人が直感的に「それはダメだろ」って思うじゃないですか。

ここで言えば、「何で“直感的に“ダメだと思うのか」を徹底的に考えて、言語化していくのが哲学論文の基礎なんです。

根拠を求められるので、それが自分の信条にまで至った時にごまかせない。

というか絶対至る。

信条のところまで腹をかっさばいて整理し直す。

研究の直接の対象が自分の腹のうちですから、掴みどころがない。掴みづらい。

その掴み方、直視する勇気(?)を学ぶという意味では、哲学には十分すぎる意義があるように思います。

今のところ私にとって、哲学は「徹底的な自己分析」です。

 

また学問として哲学が勉強できるのは大学だけです。

私は高校倫理を取ってなかったんですが、たぶん「なぜ人を殺してはいけないのか」なんて過激なテーマでグループワークしたりはしませんもんね。

けっこう珍しいんじゃないでしょうか。高校3年生になっても何してるか全然わからない学問て。

(余談ですが、哲学は勉強すればするほど「何してるかわからなくなる」んですけどね)

その意味でも大学に来て勉強する価値はあるんじゃないかと思います。

 

哲学やったら、その細分化として改めて他の学問たちに俄然興味わいてくるんですよね。

化学とか生物学とか物理学とか数学とか心理学とか世界史日本史とか文学とか言語学とか政治とか、素粒子物理学とか、もう全部です。

ほんともっと真面目に中学高校の授業聞いとけばよかったです。後悔。

散々「なんの役に立つの?」ってなってたあの憎き授業たちの見方変わるので。

まだ若い内にこれに気がつけたのは本当デカい。これが一番のメリットかもしれません。

 

【終わりに】

2回に渡って、しかもどっちも長々と書いてしまいましたが、どの程度読者の参考になったかは不明です。

まったくわからない。

私としてはデメリットや短所も挙げた上で、哲学の魅力については存分に訴えたつもりです。

 

まだはてなブログの使い方微妙にわかってませんが、質問等あれば是非コメントください。

 

また。

 

 

哲学科って何するの?①ー大学で哲学を学ぶ意義

 

孟二加です。哲学院生です。

 

「大学で哲学やりたい」

「学部/学科迷ってる」

「哲学科って何を勉強するの」

「そもそも大学って何するの」

などなど、定番ですけど、高校生/浪人生/社会人の皆さんに一定の需要があるだろうと思ったので、書いてみようと思います。

夏ですしね。

ちなみに当方某私大です。センター試験終わった後で理系から文系に進路変更して、なのに院入るくらいにはズブズブ(に文系)です。参考までに。

(つまり、まだ進路固まってなくても意外といける。急転回した先がハマるという事例もある。)

 

長くなりそうなので2回に分けて、今回は「哲学科の大学生って何勉強してんだ」って具体的なあたりを書いていきます。

 

※元も子もないですけど、こんな適当なブログ見るくらい興味あるならオープンキャンパス参加したほうが良いです。絶対。

 

【そもそも大学生って何するの】

私は高校も単位制じゃなかったので、履修登録とか最初はむっずと思ったんですけど、慣れれば超簡単。食べ放題です。面白そうな授業を受ければ良いんです。

ただ栄養が偏るといけないし、食べすぎて気持ち悪くなったらいけないので、

「この品目から何品食べてね〜」

「こっちの品目からは何品食べてね〜」

「1年に食べれる上限はこれだけね〜」

「全部でこれだけ食べてね〜」

みたいな指定があります。

んで、その食べるやつを前もって事務に申告しておかないと食べたことにならないので注意、と。

もうこれだけ知ってれば問題なしです。

指定の中で好きなだけ勉強しましょう。

担当の先生さえ許してくれれば、事前に申告してなくても聴講したり、つまりつまみ食いもできます。

大学って、特に私大って高いお金払って通うので、図書室や学食など施設は使い倒しましょう。教授陣も使い倒しましょう。人生相談とかしましょう。

 

【哲学科って何するの】

最初に言っておくと、内容は教授の専門分野にめちゃくちゃ左右されます。(他学科、特に理系はわかりませんが。)

そもそも、その先生に学ぶために大学選ぶ人もいます。海外だと学校の名前よりも先生の名前、つまり誰に習ったのか、のほうが重視されるとも聞きました。

そのくらい、大学教授ともなるとジャンルの垣根が曖昧だってことです。1人1ジャンル的な。

中学高校で、「先生が嫌いでこの授業嫌いになった」みたいな苦い思い出ありますよね。あるいは、「先生のおかげでこの授業好きになった」みたいなことも。

あれが更に極端になります。

 

でも、基本的には本を読み、レポートを書きます。

本を買うか、先生が都度コピーしてくる文献を用いて講義に参加します。

 

学期初めに「この本を読みます!」と言われていれば、

その本を買って授業内では詳しく読んでいきます。

例えば西洋の哲学者の本なら、前提にキリスト教の知識があったり。

哲学の大問題への言及があると、前提に有名な論争があったり。

近年の哲学者は哲学研究者でもあるので、哲学史の詳細な知識が前提されていたり。

素人だとどうしても読みきれない文脈があるので、そういうのを教わりながら丁寧に読むことになると思います。

 

それ以外の授業なら、

先生の裁量で哲学者の概要とか、位置づけとか、関連する問題とか教わることになるかと思います。

これこそ先生によりけり。

 

次は学年毎に紹介していきます。

 

*1年生*

これは文系大学全般に共通だと思いますけど、「必修科目」で英語の基礎とか、第二外国語とか、レポートの書き方の講義とかとります。これらはできるだけ1年生の内にちゃんと取りましょう。2年生になってから1年生に混じって取ることになります。(見てるとそれはそれで楽しそうな子もいます)

「一般教養」という区分けで他学科の授業とか、関心があるのをひたすら履修します。面白そうで、時間割りの都合の良い授業を取りましょう。

「選択必修」とか「専門履修」とかいう名前で、哲学史とか哲学の基礎とか、倫理学とかとります。

専門科目でも広く浅く勉強する感じです。

 

*2年生*

1年生に引き続き「一般教養」を埋めながらですが、専門性が高くなってきます。

「選択必修」や「専門履修」で選べる授業が増えます。東洋思想とか、キリスト教とか、インド哲学とか、美学とか。「一般的に見ればマニアック」なジャンルが増えてきます。

英語、ドイツ語、フランス語、古代ラテン語古代ギリシャ語などの基礎講座や、それらを使って哲学者の文章を直接読む、「原典購読」みたいな名前の授業も取れるようになってきます。

 

*3年生*

卒業論文に向けて、自分のテーマを絞る一年になるよう勉強します。

指導してもらうならどの先生が良いかな〜と、ゼミをフラフラします。色んな先生の授業を渡り歩くように講義を取ります。

先生のほうも卒論指導でミスマッチが合ったらやりにくいので、自分の専門バキバキの授業をします。

 

私は逆に先生を決めていたので、むしろ卒論のテーマの方を先生の専門分野に合わせて固めました。人気の先生のゼミだと入れないこともあるのです。

3年生の内に、卒業できるだけの単位を全部取れるだけ取ります。4年生で卒論と就活に専念するためです。

 

*4年生*

卒業論文執筆の授業が週に1回あります。これだけです。卒論執筆しながら就活します。

(卒業に単位が足りない人はここで他の授業も受けて、何としてでも単位を取ります。)

指導内容や指導方法は、これまた教授に寄ります。

私のゼミではグループワークが主で、同級生たちと自分の書いたものを持ち寄って意見交換してました。先生に総括もらってまた来週。

当時はコロナが流行り始めた矢先だったので完全リモートでビデオ通話しながらやってました。でもこんなゼミは珍しいんじゃないかと思います。

友達は個人指導だったので、書いたものをメールで先生に提出して、添削を受けて、たまにリモートで面談して、というのを繰り返していたようです。

 

続く