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哲学院生の自主学習

お久しぶりです。雑談。

 

研究の意義をアピールすること

 

孟二加です。哲学院生です。

 

ほぼ1年ぶり…?の投稿です。

いやぁ自主学習サボりました。

 

文系とは言っても、なんだかんだ修士というのは忙しいもので。

日々の学業はもちろん、学生なのでアルバイト三昧でもありまして。

 

まあ言い訳です。

 

そして今日の本題のつもりですが、

 

同じく勉学を共にしている友人や、

先輩後輩と話しているのが非常に楽しく、

しかも勉強になるのですよね。

 

一人で机に向かって自主学習してるよりも、

友人たちと会話して、議論して、

仲間内でレジュメや論文を一緒に検討しているのが、

ほんっっっとうに面白い。

 

というのも、こちとらガチですからね。

友人たちもみんなガチ。

 

自分の人生観を、恥ずかしいところまで

言葉に変えて、さらけ出して。

 

議論が加熱しすぎてケンカ一歩手前みたいになることもありますが、

お互いガチなのは確認するまでもない共有事項なので、平穏無事。

 

そして

(筆者が忙しい理由の1つでもありますが、)

他専攻との交流。

 

「研究するにしてもなんでその学問領域にしたのか?」

 

っていうのを問われる。

文系って、特に哲学って、ただでさえ理系に比べて肩身が狭いですからね。

 

自分の研究にどんな意義があるのか?

って常々考えていないといけない。

 

政府が学問領域への予算を削ったとかって嘆いてる研究者もたくさんいますけど、

意義をみんなにわかってもらえなきゃそりゃあカットされますよね。

 

研究してる側からしたら、

「いや当たり前でしょ!意義あるよ!」

ってなるんですよね。

 

自分はそれに人生賭けてるから。

でも他の人からしたら人生賭けるほどじゃないわけで。

なんで人生賭けるほど自分が入れ込んでるのか?

と、

ちゃんと考えてかなきゃいけないと思う

今日この頃です。

 

この意味で、

実は学問に携わる人間ていうのは、

けっこうコミュ力を求められる気がしています。

(体感。)

コミュ力とは?ってかんじですが。)

 

また。

 

次はとりあえず、映画の感想でも書こうと思います。

 

 

 

 

 

 

訂正!アウフヘーベン【哲学用語】

 

お久しぶりです。

孟二加です。哲学院生です。

(気がついたら3ヶ月…?)

 

色々下書きは溜め込んでいるのですが、1つも完成せず。

1つも完成しないままに、先日投稿したアウフヘーベンがあまりに適当だということが気になり始めました。

 

というわけで、サクッとアウフヘーベンの訂正です。

 

 

筆者は前回、アメとチョコとガムみたいなしょーもない例を出しましたが、

一応専門用語を用いて定義を確認してみますと、

 

弁証法は基本的に三分法の構造を取ります。

第一項へ、

 例:端緒、直接性、即自、普遍

第一項の否定である

第二項が橋渡しし、

 例:進展、媒介性、対自、特殊

第三項が導かれる。

 例:終局、直接性の回復、即かつ対自、個別

 

(へーゲル辞典P460より要約)

 

まあつまり、

むりやりアメとチョコで迷うという例でいえば、

「チョコがアメではない

というのが非常に大事であると。

言い直せば、第二項は第一項の否定でなくてはならないと。

 

以上。

 

 

ちなみに弁証法の投稿を直そうと思った理由ですが、

西田幾多郎の著作を読んで弁証法がめちゃくちゃ出てきたからです。

 

自分の言いたい絶対無の自覚的限定というのは、ヘーゲル弁証法に近いけど、ヘーゲル弁証法には矛盾がないからこれは真の弁証法じゃない!

 

みたいなことを西田は言っており、

絶対無の自覚的限定をわかりたかったので、

渋々()弁証法について色々調べていたのですね。

少なくとも西田は、「第一項と第二項が矛盾する」ということに重きを置くようでした。

 

うーん、定式化したヘーゲルが真の弁証法じゃないとか言われちゃうので、

弁証法と一口に言っても、一筋縄ではいかなそうですね。

 

日々是精進。

 

また。

 

[出典]

へーゲル辞典 平成4年 弘文堂

 

mother!(マザー!)観ました -映画鑑賞1

 

孟二加です。哲学院生です。

 

夏休み最後に、ずっと観たかった映画

『mother!』

を観ました。

 

スリラー映画、ホラー映画と分類されるようです。

 

ストーリーをざっくり言うと、

森の中で家を修繕しながら慎ましく暮らしている妻と、その夫。

夫は詩人で、最近スランプ。

彼らの元へ、客人が訪れるが…

 

というお話。

 

日本では公開中止、本場アメリカでも最低評価を受けた問題作とのことでしたが、

 

筆者は正直超好きな映画でした。

 

ジェニファー・ローレンスが(いつものことながら)美しい。

美術(ロケーション)もエモい。

 

筆者はただでさえ映像美重視タイプなので

これだけでもう満足。

 

一応、以下、ネタバレ注意。

 

でもネタバレしたところでこの映画の魅力はなくならないですね。

むしろネタバレ読んだ後のほうが面白いかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、どうしてネタバレ読んだほうがむしろかと言うと、

聖書の知識が必須だからです。

 

この映画は完全に聖書になぞらえていて、

聖書のメタファーだけで構成されています。

 

 

筆者は元々聖書ネタも好きだし、

そもそもキリスト教文化好きな母親からがっつりネタバレ聞かされちゃってたし…

 

さて、ガッツリさくっとネタバレして、本題の感想について語らせて頂きましょう。

 

登場人物と概要

家を修繕する妻は“地球”

(つまりマザーアース)

詩人の夫は“神”

1人目の来客は“アダム”

その妻“イヴ”

息子たちは“カインとアベル

 

次々訪れる来客は“人間”

あるいは“群衆”でしょう。

 

妻と夫の間に生まれた子は“イエス”です。

 

マザーアースから見た神と人間が、

どれだけ迷惑で理不尽で残酷か

 

と、こういうお話になっています。

 

聖書というテーマ

聖書解釈ってただでさえ今でも熱く議論されるテーマで、

っていうか聖書解釈が別れたらそれはもう宗教革命になるくらいなわけで…

これは確かに、ユダヤ教キリスト教批判として受け取られかねない…過激…

 

だって、本当に迷惑なんです。来客たち。

神である夫も意味がわからん。イライラさせられる。

 

なのでこの映画が面白く見れる人ってきっと

聖書マニアの他宗教者や無神論者とか、

クリスチャンだけど懐疑的に見ているとか、ほぼ関心がないとか、

すっごい局所的だと思います。

 

実際監督も「この映画はある特定の人たちに向けて作った」とまでコメントしているようですしね。

 

しかし先程も言ったように、

筆者にはすごく面白かったのです。

 

あらすじと好きなシーン

恣意的に映画全体をまとめるとこんな感じ。

 

〈最序盤〉

炎の中から女性がこちらを見つめるカット

神である夫が暗がりで宝石を見つめて笑うカット

ジェニファー・ローレンス演じる妻がベッドで起き上がるまでの一連のカット

 

〈本編〉

アダムとイブが来て図々しく居座り、宝石を壊す

あとは聖書通りに隠喩が続く

(中盤、来客がみんな去って子供を身ごもり、穏やかな時間もありますが、それも長くは続かず…)

妻には理不尽なことしか起こりません

怒った妻は家に火を放つ

 

〈最終盤〉

大火事の中、ジェニファー・ローレンス演じる妻がこちらを見つめるカット

なぜか燃えない夫

「あなたは何なの?」と黒焦げで死にかかった妻

「私は私だ」と夫

「お前の愛をくれ」と夫

それを受け入れる妻

夫は、黒焦げの妻の胸から心臓を取り出して、

その中から、さらに宝石を取り出します

夫が宝石を台座に戻してにっこり笑う

家も森もみるみる元に戻って、

知らない女性がベッドで目を覚ます

 

まあ全体を見ると酷い話でして。

「詩人の夫」っていうのがまたいいですよね。

クリエイターの夫、しかもスランプ中。

いかにも面倒くさそう笑

トラブルの予感しかない笑

 

等々、語りたいことはたくさんあるのですが、

他の方が感想や素晴らしい解説をたくさん書いていらっしゃるので、

私はあまり取り上げられないところを書きますね。

 

 

神が名乗る

まず言いたいのは、夫が「私は私だ」と言うシーンです。

これは日本語字幕。

英語では「I am I」。

 

ここで、聖書を知っている人は「神か!」とピンと来るんだと思います。

 

製作者も意図して、

「そうだよ!この映画は聖書だよ!」

という宣言に近いシーンではないでしょうか。

 

少なくとも私は、神が何者か問われた時の回答

「私は、在りて在るものである」

を連想しました。

こういうシーンが聖書にあるのです。

日本語だと確かに遠いんですけど、

確か英語だと「I am that I am」とかだったような…(曖昧)

何が言いたいかと言うと、まあ絶対意図してますよ、と…

 

愛と創造

となると、映画の最序盤と最終盤は、天地創造だということがわかります。

 

マザーアースの胸から“愛”として取り出された宝石。

この宝石を、神が台座に乗せたら世界がみるみるできてきたわけですが…

 

これ、アダムとイヴに破壊された、

“禁断の果実”でもあるんですよね。

知恵の実です。

神が人間に触らせまいとした

“禁断の果実”は、

世界を創造する力でもあり、

しかも地球の心臓=“愛”でもある、と…

 

すごく意味深だと思いませんか。

同時に素敵。

“禁断の果実”はしばしば“知恵の実”と言われますが、

知恵というよりは

地球の愛であり、創造力だと。

天地創造は、地球の愛あってこそだと。

 

かなしいだけの物語だと思っていたので、

この描写にはちょっと震えました。

 

しかし、神は言葉で世界をつくったとされているのが通例ですから、

これもすごい反論です。

神への冒涜だって怒る方が全然いそう…

 

拡大解釈ではないと思います!自信あります!

なぜならキリスト教とは愛の宗教でもありますから!

 

結局神は、

ジェニファー・ローレンス演じる妻の“愛”で

新しい妻と新しい世界を造っちゃうんですけど…

でも!逆手に取れば、

「愛は不滅だ」とも取れなくもない…?

これは拡大解釈でしょうね…

 

地球である妻と神である夫がケンカして

「あなたは私を愛してない!」

みたいなことを言うシーンがありますし、

愛溢れる温かい…感じのシーンてイエスを身篭った時くらいなんですよね。

まあ普通にシナリオだけ見ても胸糞映画ですし。

 

製作者が、神と群衆が好き勝手する世界を「愛のない世界」として描いていることは確かです。

それが「愛の宗教」と呼ばれるのですから、

監督の皮肉はここにも効いていそうです。

我々は本当の愛を踏み躙っている、

という。

 

感想まとめ

一応注意しておくと、

一部の聖書解釈に肩入れするわけではないです。

聖書の奥深さ、ロマンを見せてもらったなぁという感じですかね。

 

また、キリスト教の文脈抜きにしても、

人間の身勝手で地球が傷ついているということは確かで、

この映画はそれを痛烈に感じさせてくれました。

 

あとは冒頭に述べたように映像美。

 

長くなりましたが、以上。

ほとんど酷評されてるところしか見ないのでmother!を好きになってくれた人とは気が合いそうですね笑

 

 

また。

 

 

 

 

哲学史やってく4-古代2

 

孟二加です。哲学院生です。

 

哲学史やってく」では、その名の通り哲学史の自主学習をやっていきます。

 

前回の哲学史からかなり日が空いてしまいました…

短くていいからコンスタントにやろう…

 

イオニア学派の続き〉

 

 アナクシメネス(前560年頃〜前500年頃)

彼はアルケーを空気であるとした。

これは、すべてのものが成立する原理だけでなく、

変化の過程や現象の多様性に対して自然な説明を求めたためである。

 

彼は空気の濃淡、自ら絶えず運動している様をその原理として考えた。

大きく開けた口から吐く息は暖かく、細く吐いた息は冷たい。

これに伴い、火は空気の薄さから、水や個物は空気の濃縮からなるとした。

 

人間の魂は神の息であるので、

宇宙全体を一つの生命体とすれば

それは命の息で満ちているはずだと考えたのである。

 

アナクシメネスの説明は、

同一の実体が量的に変化することで生成が起こるという、

科学的に見ても高度なものであったとされる。

 

イオニア学派の直系は彼で終わりです。

前回ここまでやれば良かったんですが…

 


後世には数学者としてよく知られている

 ピュタゴラス(前570年頃〜)

彼自身の教説は後のピュタゴラス学派の中で発展したものと区別し難い。

彼の考えた原理はいかにも「数」であった。

10の点をピラミッド型に配置した図は、ピュタゴラス主義において聖なる形であるとされている。

この10の点が「限定されたもの」であり、

何も描かれていない空間は「無限定なもの」である。

アナクシマンドロスたちと同様に、ここから存在は発生するとした。

 

ピュタゴラス当人は「1」を重視したが、

弟子たちは後にパルメニデスによって「一から多は生まれない」と批判を受け、

ピュタゴラスの教説の宗教性や神秘性を手放したようである。

以降原子論へと歩み出すことになる。

 

ここまで。

 

[参考・引用]

ミネルヴァ書房『よくわかる哲学・思想』

納富信留/檜垣立哉/柏端達也

平凡社ライブラリー『西洋古代・中世哲学史

クラウス・リーゼンフーバー

 

あとはヘラクレイトスまでやったら!

エレア学派に入ったら!

実は既に書き溜めたものが少しあるので、楽できる…

そこまでしばらく頑張ります。

 

しかし古代ギリシア面白いですね。

学問の垣根がない。

現在の学問なんか断絶がありすぎて

「タコツボ化」なんて言われるくらいですもんね。

古代ギリシア人には、現在学問に取り組む私達が見習うべきところがたくさんありそうです。

 

 

また。

 

 

 

アウフヘーベン【哲学用語】

 

孟二加です。哲学院生です。

 

投稿をだいぶサボってしまいました…

 

哲学史にはちょっとずつ取り組んでいるのですが、

前回の哲学史の続き(ちなみにピュタゴラス派)を飛ばして進めてしまっているので、

これを早くやっつけないと、ある程度書き溜めているのにいつまでも次に進めないという…

 

このままブログからフェードアウトするのも嫌ですから

入用で調べたやつを軽めに一投稿しとこうと思います。

 

この【哲学用語】シリーズでは、表題の哲学用語について独学で調べたことをまとめています。

 

今回は「アウフヘーベン」です。

日本語で言うと「止揚」。

 

それまでも行われていた論理手法、「弁証法」と共に、ドイツの哲学者ヘーゲルがちゃんと定式化した概念です。

 

具体的にはどういうものかというと、

 

アメを食べたい子と、チョコを食べたい子がいたとします。

お互いどうしても譲れない。

なのでアウフヘーベンして、ガムにしよう。

これが弁証法

 

こんなかんじです。印象。

 

つまり、

2つの相反する命題を解決する方法として、

第三の選択肢をひねり出す。

ということ。

(間違ってたら教えてください)

 

(※2021.12.10追記

間違ってます!!!!!!)

 

アメとチョコで争っててガムなら新しくも難しくもないのですけど

 

例えばカントの感性界と英知界なら…?

(カント哲学では人間の認識と物自体との間に断絶がありました)

 

なんか、次元が一段上がるというか、

一段メタになるというか、

なるほどここにアウフヘーベンの特徴があるわけですね。

徹底的に論じ尽くしたかと思われた二項対立から、どちらでもなく、どちらも包括できるような概念を生み出すところ。

 

これは私の今のところの解釈ですが、

カント哲学の断絶を「アウフヘーベン」し、

たった1つの原理と統一を求めたのが

ドイツ観念論の流れだと思われます。

 

もしかしてドイツ観念論を筆頭に、哲学の歴史は弁証法の歴史…?

 

ちなみに筆者の今の所の理解は

フィヒテは“自我”推し

シェリングは“自然”推し

ヘーゲルは“絶対精神”推し

こんな程度です。はい。

 

ドイツ観念論はハードルが高い…

しかし筆者の専門的にも避けては通れませんから、いずれまた詳しく。

 

 

また。

 

 

 

 

 

 

空(くう)【仏教用語】【哲学用語】

 

孟二加です。哲学院生です。

 

【哲学用語】では、

表題の哲学用語について現状の筆者の理解、独学で調べたこと等をまとめていきたいと思います。

独学のアウトプットの場でございます。

 

哲学史と哲学者が思ったより重くて

更新速度が落ちてきましたので…軽めに一投稿。

 

第一回である今回は「」です。

 

そら、ではなく

くう、と読みます。

哲学用語というよりはむしろ仏教用語なのですが。

 

筆者はこの概念を、

文人哲学者、和辻哲郎の著作で知りました。

和辻の思想の核でもあるので、

解説が和辻の思想寄りになっていると思いますが、悪しからず。

 

さて、空とは

 

一切の事物は相互依存的にしか存在しておらず、

実態や本質はどこにもない、

一切は「空」だ。

 

ということです。

 

「本質がどこにもない」?

と疑問にお思いでしょうが、

この言い方には私もちょっと反対します。

 

正確には、というか鍵となるのは、

「相互依存的にしか存在しない

こっちのほうだと思っています。

 

何が違うのか。

例を2つ出しましょう。

 

1つめは、

アジサイの花の本質はどこにあるのか

ということです。

(なぜアジサイかというと筆者が好きだからです)

アジサイそのものをバラバラに分解しても本質なんて見つからないでしょうし、

「梅雨、青い小さな花弁を集合させて咲く」

とか言ってみても、

梅雨、青さ、小ささ、花弁、集合、花が咲くということを、我々はいつ捉えたんでしょうか。

一方で「青さ」の本質を語ろうと思ったら

空や海やスミレやアジサイの色を持ち出して説明されるでしょうしね。

ここからわかることと言えば、

アジサイの花の本質は、

他の花や他の事物なしには捉えられないということです。

他の花や他の事物ではない

ということを通じてしか成立していないということがわかります。

 

2つめの例は

あなたが自分のアイデンティティについて悩んでいるとします。

仮に、「自分は真面目だ」と結論づけたとします。

それってどうやって決めたんだ?

ってところを考えます。

そうすると、

"真面目じゃない人"を見てきたからではないか?

って言えると思います。

つまり「私の真面目さ」というのは

「誰かの不真面目さ」ありきなのです。

不真面目ではない

ということを通じて、「私のアイデンティティ」は真面目さに置かれたのだとわかります。

 

はい。

 

「一切は空だ」とはこういうことです。

すべてが、

あれでもない、これでもない

という仕方、つまり

何かの欠如態や否定形でしか固有性を表せないし、

相互に依存しあっているのです。

 

だから、

本質なんてものは究極には想定できないんです。

本質が存在しないというより、

考えても考えても「空じ」てしまう。

 

これは筆者の感想でしかありませんが

「空」

という名詞より

空ずる

と動詞で言ったほうが厳密なんじゃないかって思います。

 

この「空ずる」は

原始仏教の中でも特に重要な教えの一つだそうですね。

インドから中国を経て日本に伝わるまでに

翻訳の問題等で混同や分離が起こったようで、

「無」との区別が曖昧になっています。

余談ですが、

和辻哲郎は「空」を重要視し、

師でもある西田幾多郎は「」のほうを重要視しています。

「無」は「無」でいつか取り上げたいと思います。

 

 

軽く一投稿のつもりだったのに

思ったより長くなってしまいました。

 

 

また。

 

 

 

ショーペンハウアー②【哲学者】

 

孟二加です。哲学院生です。

 

ちょっとだけ間が空いてしまいましたが、

前回に引き続き

アルトゥール・ショーペンハウアーについて語って行こうと思います。

 

早速参りましょう。

 

〈思想の特徴〉

 

哲学ってなんか系譜というか、流れというか、

そういうのがあります。

ショーペンハウアーもけっこうあちこちから影響を受けていて、

特にプラトンとカント、ウパニシャッド哲学からの影響は甚大です。

カントに関しては

「私はカントの直系だ」と自任するほど。

著作の中にもめちゃくちゃカント出てきます。

カントの知識がないと言ってることの大半わからないくらい。

だから主著は難しくて売れず、

エッセイみの強い『余録と補遺』のほうがヒットしたのです。

(しかし一般的にはカントの直系って

フィヒテシェリングヘーゲルとかなので、

ショーペンハウアーはちょっと本筋から外れる扱いを受けると思います。)

 

また影響を与えた思想家もけっこういて、その中だとニーチェが有名です。

「意志」の哲学ですね。

※詳しくはニーチェの方も勉強してからにします…

 

彼の世界観は、

主著の題『意志と表象としての世界』

これに尽きます。

彼にとって、

「世界は私の意志表象

なのです。

一見、観念論とか独我論のように思われます。

(勘ですが、哲学やる人でショーペンハウアーを避けた人、ここに拒否反応を示した場合も多そう)

 

しかし彼の哲学はそんな一言では終わりません。

この、「意志」と「表象」が非常に厄介。

 

「表象」は筆者も猛勉強中で、

哲学史、特にプラトンとカントの素養が必要です。

現象学っぽい側面も強くて

簡単な言葉でまとめるのも難しく、

なかなか一般受けしそうな話はできそうにありません…

 

「意志」については少しだけ、解説したいと思います。

 

ショーペンハウアーの世界観において、

苦悩は人生の前提です。

幸福や快楽といったものは、

「苦悩や苦痛がない状態」でしかないと言うのです。

例えば、「何気ない毎日が幸せ」とか真剣に言えるのは、何気ない毎日を失ったことがある人だけです。

(筆者はぬくぬく暮らしているので恥ずかしくて言えない。幸せ者です。)

 

もっともっと身近な例で言えば、肩揉みが気持ち良いのは肩が凝っている人でしょう。

子供の頃肩を揉まれてもくすぐったいだけだったのに…今はめちゃくちゃ気持ち良いですね。

 

これがなぜかというと、

人間を動かす活力(彼はこれを意志と呼ぶ)は、

"ただ盲目的に生きる"ことを目指していて、

その邪魔となるものを排除しようとするからです。

生きるのには、怪我や病気は困るのです。

だから退けるために苦痛となる。

我々の意志は、どんなに快適な環境下でも、もっと快適な環境を求める。

 

つまり、彼によれば

生きることが苦しい時、それは生きたいからなのです。

 

別の側面から言えば、

仏教の生老病死とほぼ一緒だと思われます。

人生の四つの苦しみは、

老いること。

病むこと。

死ぬこと。

そしてそもそも生まれてきたこと。生きていること。

生きてなかったら老いないし病まないし死なないですもんね。

 

この世界観が、彼が厭世主義と言われる所以です。

そして暗いイメージを持たれる所以でもある。

(実は暗くないと筆者は思っているという話は前回した通りです。)

 

〈概要〉

ドイツの哲学者。

厭世主義(ペシミズム)の人であり

なんとなく暗そうなイメージを持たれがち。

仏教や東洋思想をいち早く(もしかしたら西洋一早く?)取り入れた人物でもあります。

 

著作では、晩年記した

『余録と補遺』(通称パレルガ)

その中から抜粋したエッセイ

『幸福について』

『読書について』

『自殺について』

『女について』

などがよく知られています。

 

〈生涯〉

裕福な商人の父の元に生まれ、自身も商人となるよう育てられました。

「アルトゥール」という名は、

英語読みだと「アーサー」

フランス語読みなら「アルチュール」と、

ワールドワイドな名前なのです。

幼少期、父に商人になることを約束し、ヨーロッパ一周旅行に連れて行ってもらいます。

そこで貧困層の生活の惨状を目にしたと言いますから、

彼の哲学の“暗さ”はこの体験に基づくのかもしれないと言われています。

 

まだ若いうちに父が急死すると、

アルトゥールは父の莫大な遺産を母と姉妹と分割し、本格的に哲学の道を志すようになります。

母のヨハンナは上流階級の知識人、文化人で、

当時の女性としてはかなり活動的な人でした。

ショーペンハウアーの名は女嫌いとしても有名ですが、

この母ヨハンナの影響がしばしばその原因とされています。

母ヨハンナは陰鬱な息子と顔を合わせる度

何かしら小言を言っていたようで、

「あなたは私の母としてだけ名が知られることになるだろう」

的なことを言い返されてます。

実際その通りですね…

 

アルトゥールは母のコネクションもあって

ゲーテ(詩人。1749.8.28〜1832.3.22)と知り合い、その才を見出されました。

 

ゲーテは、

(現在で言うと博士論文にあたる)

『根拠律と四つの根について』

を読み、まだ若きショーペンハウアーを高く評価しました。

(後にゲーテは色彩論を書くように勧め、

ショーペンハウアーの書いた色彩論の方向性の違いで若干ギクシャクしたようです。)

 

当時から大哲学者であったヘーゲルを一方的にライバル視していて、

ヘーゲルの講義の真裏で自身の講義を開きますが、

当然の如く玉砕。

ヘーゲルの講義が満員の一方で、

ショーペンハウアーの講義は数人しか受講しませんでした。

すっかり拗ねてしまって、これ以降彼が教壇に立つことはありませんでした。

という有名なエピソードがあります。

すごい人間らしいというか、哲学者っぽいというか…

 

主著『意志と表象としての世界』は

なかなかヒットせず、

晩年『余録と補遺』が予想外のヒットを遂げます。

 

幾度か大恋愛を経たらしいんですが、生涯独身を貫きました。

余生はフランクフルトに落ち着いて、犬をアートマンと名付けて大層可愛がりました。

地元の人には、哲学者というより毎日犬の散歩をしているおじいさんとして有名だったようです。

 

〈終わりに〉

いかがでしたでしょうか。

結構長々と書いたのですが、

しっちゃかめっちゃかですし、

実は書きたかったことの半分も書けていない気がしています。

 

ショーペンハウアーは私の専門ですから、

気が向いたらまた追記していこうかと思います。

 

 

また。