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哲学院生の自主学習

空(くう)【仏教用語】【哲学用語】

 

孟二加です。哲学院生です。

 

【哲学用語】では、

表題の哲学用語について現状の筆者の理解、独学で調べたこと等をまとめていきたいと思います。

独学のアウトプットの場でございます。

 

哲学史と哲学者が思ったより重くて

更新速度が落ちてきましたので…軽めに一投稿。

 

第一回である今回は「」です。

 

そら、ではなく

くう、と読みます。

哲学用語というよりはむしろ仏教用語なのですが。

 

筆者はこの概念を、

文人哲学者、和辻哲郎の著作で知りました。

和辻の思想の核でもあるので、

解説が和辻の思想寄りになっていると思いますが、悪しからず。

 

さて、空とは

 

一切の事物は相互依存的にしか存在しておらず、

実態や本質はどこにもない、

一切は「空」だ。

 

ということです。

 

「本質がどこにもない」?

と疑問にお思いでしょうが、

この言い方には私もちょっと反対します。

 

正確には、というか鍵となるのは、

「相互依存的にしか存在しない

こっちのほうだと思っています。

 

何が違うのか。

例を2つ出しましょう。

 

1つめは、

アジサイの花の本質はどこにあるのか

ということです。

(なぜアジサイかというと筆者が好きだからです)

アジサイそのものをバラバラに分解しても本質なんて見つからないでしょうし、

「梅雨、青い小さな花弁を集合させて咲く」

とか言ってみても、

梅雨、青さ、小ささ、花弁、集合、花が咲くということを、我々はいつ捉えたんでしょうか。

一方で「青さ」の本質を語ろうと思ったら

空や海やスミレやアジサイの色を持ち出して説明されるでしょうしね。

ここからわかることと言えば、

アジサイの花の本質は、

他の花や他の事物なしには捉えられないということです。

他の花や他の事物ではない

ということを通じてしか成立していないということがわかります。

 

2つめの例は

あなたが自分のアイデンティティについて悩んでいるとします。

仮に、「自分は真面目だ」と結論づけたとします。

それってどうやって決めたんだ?

ってところを考えます。

そうすると、

"真面目じゃない人"を見てきたからではないか?

って言えると思います。

つまり「私の真面目さ」というのは

「誰かの不真面目さ」ありきなのです。

不真面目ではない

ということを通じて、「私のアイデンティティ」は真面目さに置かれたのだとわかります。

 

はい。

 

「一切は空だ」とはこういうことです。

すべてが、

あれでもない、これでもない

という仕方、つまり

何かの欠如態や否定形でしか固有性を表せないし、

相互に依存しあっているのです。

 

だから、

本質なんてものは究極には想定できないんです。

本質が存在しないというより、

考えても考えても「空じ」てしまう。

 

これは筆者の感想でしかありませんが

「空」

という名詞より

空ずる

と動詞で言ったほうが厳密なんじゃないかって思います。

 

この「空ずる」は

原始仏教の中でも特に重要な教えの一つだそうですね。

インドから中国を経て日本に伝わるまでに

翻訳の問題等で混同や分離が起こったようで、

「無」との区別が曖昧になっています。

余談ですが、

和辻哲郎は「空」を重要視し、

師でもある西田幾多郎は「」のほうを重要視しています。

「無」は「無」でいつか取り上げたいと思います。

 

 

軽く一投稿のつもりだったのに

思ったより長くなってしまいました。

 

 

また。